上野智男どん残念 あなた抜きで初日行ってきました。

Publié le par workshop45

11月24日
ピーター・ブルックの『11&12』の初日に行ってきました。

前回の芝居とちょっと違うなと思ったのは夢の部分が代わったところでした。

前回は一階席で観たのですが、今回は二階席で、のぶちゃんと観ました。

二階席から舞台を見渡すノブちゃん。

 

この手の芝居はやっぱり一階から観た方がいいと私は思った。
舞台美術がシンプルなので、役者の背後にある何も無い空間が創造力を刺激する。
しかし、二階席から観ると観なくていいものさえもきちんと見えてしまう。
舞台上の床に敷かれた布が四角であることや役者の出入りが全てきちんと見える分。なんとも作業的に見えてしまった。
二階からの観劇は想像力を激減させてしまった。

しかし、としさんは一回目よりも前面に出てきたような気がした。
トシさんの音楽が無かったらどうなっていたのだろう。
この舞台にトシさんがいないということは、まずありえないことだが。
しかし、トシさんとピーターの心が通っているのがビンビンと伝わってくる。

上野智男さんの紹介でトシさんと出会い、そしてピーター・ブルックの芝居を観れてその彼とお話ができる。
帰りのメトロの中、トシさんと別れて一人。私の事など誰ひとり知らないメトロの人ごみの中。
人生の楽しみというものを味わったような気がしました。いやいや私は幸せ者です。
演劇界の巨匠ピーター・ブルックに会いたくても会えない。観たくても観れない。
そんな人は世界中にたくさんいる。
にもかかわらず、なぜ私はその場にいれるのだろう。

トシさん左。真ん中Pブルック。右のぶちゃん。



アーティスト・役者・舞台美術家・衣装と、なんでもこなす笑顔が最高のアブドゥ(マリ出身)。
行けたらアブドゥの住むマリに遊びに行きたい。




ここでちょっとPブルックの事を書いておきます。


1925年ロンドン生まれ。イギリスの演出家、演劇プロデューサー、映画監督。大英帝国勲章(CBE)叙勲者。
1946年若干21歳でロイヤル・シェークスピア・カンパニーの最年少招待演出家となる。
1952年映画『三文オペラ』監督。
1960年映画『雨のしのび逢い』監督。
1962年から現在に至るまでロイヤル・シェークスピア・カンパニーを基盤に活動。
1971年国際演劇研究センターをパリに設立、1974年から現在に至るまで主催。

以下はPブルックの『殻を破る』からの抜粋です。(高橋康也・高村忠明・岩崎徹訳) 晶文社 1993)

オペラ。つぶやき、恐怖の声、愛の囁き、怒りの叫び はじめ人間の自然な感情表現だったものが歌となり、いつしか体系だった構成を獲得して、芸術に成長した。そこまではよかったが、この芸術様式は、あるとき凍結された。そして、凍結されたがために称賛されるようになり、オペラ・ファンは人工的な芸術に熱烈な声援を送りはじめた。モーツァルトに至ると、人工とあふれる躍動感の完全な調和が生まれた。いうならば、頑丈な水道管とその中を流れる水の関係だ。ところが人工のほうにどんどん注意が集中して、ついに動脈硬化に陥った。突然、パイプだけに目がいくようになり、中を流れる水は痩せ細るばかりだった。水を引くためにパイプを通したことを忘れて、パイプ自体を芸術作品だと思い込んでいる社会。

内実が消え失せると、様式の追求がますます盛んになる。しかし様式が気になるのは、かけだしや二流の俳優の演技をみているときだけです。それを乗り越えた瞬間、一見不自然な様式の劇でも、実際に伝わってくるのは人間性なのです。まったく不思議ですが、そうなのです。あらゆる演劇のなかでおそらくもっとも様式的な日本の文楽がいい例です。様式の極限と思われる芸術でありながら、本物の名人芸を目にすれば、観客は 「人形がまるで生きているようだ」 と言います。

そのひとつひとつが極度に様式的でコード化されているインドの伝統舞踊、その年老いたインド人舞踏家に、何を考えながら踊っているのか尋ねてみると、「じつに簡単なことだ。自分が生まれてこのかた経験したことをすべて集約して、こうして踊ることで、私の感じたこと、理解したことの証となるよう心がけている」

なにもない空間は、現実世界のあらゆる要素を含んだきわめて複雑な世界を観客に想像させることができる。その世界では、社会的、政治的、形而上的、個人的とあらゆる種類の関係が共存し、絡み合っている。しかし、この世界は、劇がしだいに展開していくにしたがって、ひとつひとつ言葉や動作、関係、テーマ、登場人物どうしのやりとりを重ねていくうちに構築、再構築されていくのです。これほど入り組んだ世界をたどるからには、観客の想像力はつねに開放されていなければなりません。そこで、なにもない空間が貴重な意味を持ってきます。なぜなら、それは二、三秒おきに観客に初心に帰る機会を与えるからです。観客は、いったん白紙に戻ることでいっそう鮮明な印象をとどめることができます。

俳優は 「印象づける」 ことや 「見せる」 ことをねらってはならないし、「でっちあげ」 よう、「受け」 ようとしてはならない。自分が見世物になっているという考えを捨てなければならない。発想を転換して、つねに自分より大きなイメージに仕えるのだと思う必要がある。どんな役を演ずるにせよ、作中人物は自分より強烈なのだと思わなくてはならない。

現代は価値判断を極端に怖れる時代だ。私たちは判断を下さないほうが偉いのだと自分に言い聞かせることすらある。しかし、理想が無くては社会は成り立たない。観客は舞台上の出来事を目の当たりにしたとき、同意するのか反発するのかを問われる事になる。人は誰でも、賛同するのか非難するのかの価値基準を心に持っている。演劇は、この価値基準が外から押し付けられたものであるか、それとも自分の信念に基づいたものであるかを見極める機会を提供する。


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